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鎌倉幕府~成立

いい国(1192)作ろう鎌倉幕府。日本の歴史の年号の語呂合わせでは有名ですね。源頼朝が鎌倉に創設した、武家政権による政治が行われました。これまでは、鎌倉幕府のはじまりは、源頼朝が征夷大将軍に任官されたことから始まったとされていましたが、頼朝はそれ以前から権力を持ち、統治機構も続いていたことから、現在では支持されていない説になります。現在では、いつ鎌倉幕府が成立したとするのではなく、いくつかの段階を経て、成立したものと考えられています。鎌倉幕府は新田義貞らに北条氏が滅ぼされて幕を閉じることになります。それまでの間を鎌倉時代と呼んでいます。

鎌倉幕府成立まで

平安時代末期、平清盛を中心とする平氏政権が行われていました。反平氏の動きが激しくなり、後白河上皇の皇子、以仁王が平氏追い討ちの兵を出しますがすぐに討ち取られます。しかしこれをきっかけに、全国的に反平氏の勢いは強くなっていきました。先祖のゆかりの地である鎌倉に本拠地を置いた源頼朝は、自分を支持する関東武士団をまとめるための侍所を置き、関東武士団の代表は鎌倉殿と呼ばれるようになりました。その後、頼朝は富士川の戦いで平氏に勝利し、関東武士団の意向により、関東内部の平定と経営に重点を置くことになります。

1,183年、源義仲が京都から平氏を追放し、京内で好き勝手な行動をとるようになり、後白河天皇はこれを憂慮して頼朝に上洛を求めます。これに対し、頼朝は東海道・東山道・北陸道の荘園、公領を国司・本所に返還させるよう要求しました。朝廷は、北陸道は義仲に配慮して除外したものの、この要求をほぼ認めたことにより。頼朝は東海・東山の両道を間接的に支配する権利を獲得したとも言えます。

平家滅亡へ

着実に東国の支配権を確立していった頼朝は、1,184年に後の政所となる、行政を担当する公文所と、問注所という、司法を担当するものを置き、政権の実態を形にしていきました。それと同時に弟の源範頼と源義経を平氏追討に当たらせ、日本の歴史に残る、壇ノ浦の戦いによって平氏が滅亡します。これで6年間に渡る内乱が終わりを迎えました。

頼朝政権

義経らが手柄を立てたのにも関わらず、頼朝の指示を仰がずに勝手な行動による勝利であり、手柄を期待して頼朝についている臣下からも不満が爆発します。そして、源義経、源行家が頼朝政権の内規に違反したことをきかっけに、後白河天皇から2人を追討にする院宣を獲得し、守護・地頭の任免権も認めさせました。こうして頼朝政権は全国の軍事権と警察権を獲得し、この時期をもって鎌倉幕府成立とする説が有力になってきています。このときの頼朝政権は地頭の設置なども平家から没収された官領に限定されていました。守護・地頭には兵糧米の徴収権や、在庁官人の支配権が与えられ、これが、頼朝政権が全国的に在地支配を拡大するきかっけにもなりました。

日本初の征夷大将軍

1,190年、上洛した頼朝は後白河天皇と会見をし、右近衛大将の官職を与えられます。これは皇居を警備する職務で、右近衛府の長官の位です。もちろん頼朝が望んでいるのはこの役職でもなく、全国武家の統率者として値する役職とも思えません。頼朝が望んでいたのは朝廷軍事の一切を取り扱う、征夷大将軍の官職を手に入れたかったのです。しかし、後白河天皇は頼朝を制圧して、武士勢力がこれ以上強くなることを食い止めようとして、何があっても頼朝を征夷大将軍にするつもりはありませんでした。1ヶ月間京に滞在した頼朝でしたが、何も進展は望めないと見て鎌倉に帰ります。右近衛大将の職も辞して、不快感をあからさまにしていました。その2年後、後白河天皇が崩御し、頼朝にとっての目の上のたんこぶがなくなりました。頼朝は名実共に権力者となり、1,192年7月12日、望んでいた征夷大将軍に任じられ、武家政権の始祖として武士に神聖視されるようになり、鎌倉に幕府が開設されて、日本史上はじめて武家政権が公認されました。補佐役として、北条時政が任命されました。


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